積み本の軌跡

影の告発(土屋隆夫)

探偵作家クラブ賞が日本推理作家協会賞となって最初に受賞した長編作品。
長編第一作の「天狗の面」は、その風物的な土着信仰を扱いながら横溝的なスリラーやオカルト要素はなく、事件の謎を(突然現れた)名探偵が解き明かすという、従来の古典推理小説に通じた作風でした。
第二作の「天国は遠すぎる」以降は作風を一変し、事件展開を警察側の捜査状況とともに克明に追い、進んでは止まりを繰り返す捜査の中で、謎が解かれていく過程を重視した論理主体の本格推理へと変貌していました。
本作はその作風を継承し、のちにシリーズの主人公となる千草検事最初の事件。
ミステリーに弁護士を起用する作品は数多しといえど、本格推理というジャンルに検事を起用するというのは案外珍しい気がします。

高度成長期の時代、物珍しさに人がごった返す高層デパートのエレベータ内で発生した殺人事件。
事件発生の概要を語る視点の主はデパートのスタッフやエレベーターガールですが、連日の勤務に明け暮れ、客を動物に例えて愚痴をこぼすその姿はまさに現代人そのもの。
現代人の苦心はいつどこであっても(たとえ小説の中でも)同じであるというところに思わず苦笑します。
本作は事件調査による聞き込みや情報収集の過程が面白く、特にたばこ屋の主人が語る「過去を消した男」の話は、事件解決への歯車が動き出すような躍動感を感じます。
推理小説的なトリックでは、中盤にて犯人が仕掛ける電話トリックが素晴らしく、日ごとに発展する現代社会でも問題なく通用するのではと感心しました。
意識の誘導と心理へのトリックとして申し分なく、おそらく作者自ら試したに違いない。

あえて欠点があるとすれば、タイトルに絡ませたあるトリックがやや安易で機械的であるということ。
同時期に松本清張も同様のトリックを使用しており、(トリックだけ抜き出してみたとすれば)やはりインパクトに欠ける。
推理小説はトリックの良しあしで出来の良さが左右されるものではありませんが、たかがトリックされどトリック、重要な要素には違いあるまい。
そのトリックから関連付けた第二の事件も若干不本意な殺人のような気がします。

ところで、本作で初登場の千草検事ですが、頭の切れる検事であることの他、誰にでも厳格でありかつ寡黙で、妻に対する態度も機械的でどこか冷めています。
常に眉間にしわを寄せていそうで、どことなく角田喜久雄が創作した加賀美敬介を思い出します。
おそらく千草検事のモデルもシムノンのジュール・メグレなのでしょう。

中途の家(エラリー・クイーン)

本書の解説によると、エラリーの名探偵としての立ち位置が変化し始めた初期の作品らしく、いわゆる「後期クイーン問題」の始まりを告げる作品でもある(らしい)。
といっても、エラリーが警察よりも早く事件に関与するということ以外に特に変わったところはなく、今までの国名シリーズと同様の本格推理を楽しむことができる。

本作では本格推理ジャンルではあまりなじみのない法廷シーンが展開されている。
被告人は(雰囲気や伝統的な意味で)犯人ではない無実の人間で、いわゆる冤罪になるかどうかの瀬戸際ということになり、エラリーは何とかしてこの人物に犯行が不可能であったことを立証しようと試みる。
当然本当の犯人は別にいるのだが、この法廷での緊迫したシーンは他に類を見ないほどサスペンスに富んでおり、個人的にかなり印象深い。
裁判を経て下される判決の意外性、ひそかに事件現場にいた人物の重要な証言、堂々と蒔かれた伏線と推理の論理性等々、事件の発生から解決に至るまでの先の展開が全く読めず、エラリーという百戦錬磨の名探偵が登場してもなお安堵できないスリリングなストーリーが非常に面白かった。
人物描写に結構気を使っており、中盤にて悔い悩み落ち込み自暴自棄になるある人物の痛々しい姿は、読者をその過酷な運命の渦に巻き込むがごとくの勢いである。

本作にも「読者への挑戦」はありますが、いつものことながら、論理的なプロセスによる謎の解明にはただただ感嘆の他ない。
「後期クイーン問題」というややマニア向けの考察にそれほどの関心がなくても、クイーンが国名シリーズから積み重ねてきた本格推理の一つの到達点として、本作の存在は外すことができないだろう。

悪魔と警視庁(E・C・R・ロラック)

最近では、ロジャー・スカーレットやジョージェット・ヘイヤーといった女流推理作家の作品が続々と翻訳されていますが、E・C・R・ロラックもそのうちの一人。
ロジックやトリックだらけのガチガチの本格推理というよりは、文章の美的センスと洒落たユーモアを織り交ぜた作風で、提示した謎を丁寧に扱い展開していくような繊細なプロットが冴えます。
本作の出来からすると、「ジョン・ブラウンの死体」や「鐘楼の蝙蝠」「曲がり角の死体」といった、まだ見ぬロラックの作品に大きな期待を寄せないわけにはいきません。

本作で起こる謎は、警察車両内に棄てられたメフェストフェレスの仮装を施した死体。
かなりインパクトのある事件ですが、ストーリーが進むにつれて、仮装された理由や警察車両で遺棄された理由が明らかにされていきます。
犯行当夜のロンドンでは濃霧が発生しており、偶然居合わせたマクドナルド警部も視界が悪く、当時の状況を克明にすることができません。
この深い霧で覆われた道路上での状況を証言から構築していく、緻密な論理によるアリバイ検証というプロットは、まさに本格推理の醍醐味といったところ。
洒落た文体や表現方法だけではないという、ロラックの神髄を見ることができます。

いくつか違和感を覚えるのが、事件とはほぼ無関係の盗人の存在と、犯人の正体を知っている者が意図的にマクドナルド警部から身を隠そうとするところでしょうか。
それぞれ作中にてそれなりの意味合いを持たせようとしてはいるのですが、それほどその理由に頷けないというところが難点。
謎の展開と解明を主な主軸とする本格推理において、頷けない理由による展開は、作風のぶれにつながるのではないかと考えてしまいます。

パンチとジュディ(ジョン・ディクスン・カー)

カーの神髄を、密室殺人や不可能犯罪といったトリック面に見出すことができるのは当然ですが、語りのうまさの技術は並々ならぬものといってもいいでしょう。
「三つの棺」のような密室を扱った作品に人気が集中するのはもちろんですが、「魔女の隠れ家」や「猫と鼠の殺人」といった、トリックらしいトリックがない作品にも読者を読ませてしまう魅力があるのは、カーのストーリーテラー気質な作風があってこそだと思います。
最近(2017年)も東京創元社や早川書房がカーの作品の新装版や新訳版を刊行している背景がありますが、これは往年の"カーは読みたくても読めない"という品薄状態が続いたことからくる反動の結果でもあり、読者がカーを求め続ける需要の高さを示します。
しかし、カーの有名な作品を一通り読み終えた読者は、"密室トリックがスゴい作家"というミステリー界で植え付けられたカーのイメージから脱却し、話のうまさや語りの巧みさに魅力を感じ始めるのではないでしょうか。
ことに本作も同様で、トリックらしいトリックはありませんし、もちろん密室殺人でもありません。
それでも面白いと感じてしまうのは、カーの真骨頂ともいえる語りのうまさが要因といえるのです。

「パンチとジュディ」はH・M卿が登場するカーの比較的初期作品で、一角獣殺人事件やのちにプレーグ・コートの殺人でも登場することになるケンウッド・ブレイクが主観的な語りの主人公となります。
全編通して経過した時間は1日という短さで、本格的にストーリーが始まるのはケンがH・M卿に会ってからですから、夜の7時頃~翌日の12時頃までという、わずか3/4日といったところ。
翌日婚約者のイヴリンとの結婚式を控えたケンは、H・M卿の無理難題という名の無茶ぶりををっさと済ませて、翌日の昼までには自宅へ戻らなければいけない、にもかかわらず次々と襲い掛かってくる厄介ごとの連続にてんやわんやになります。
はたしてケンは結婚式に間に合うのか、という殺人事件とは無関係のコメディチックな一種のサスペンスも含まれており、作中全体からはユーモアやファースが漂います。
カーのロマンス趣味ともいいうべき要素が、殺人という悲観的なイメージに(ユーモアやファースとして)華を添えており、密室ものとは一味違ったカーの醍醐味を堪能することができるでしょう。

本作に欠点があるとすれば、読んでいる途中は一体何が起こっているのかが漠然として理解できないところでしょうか。
ケンはH・M卿からある任務を課せられますが、そこからどうしたわけかH・M卿との連絡がつかなくなり、ましてや結婚式どころではない立場に追いやられてしまいます。
ようやく誤解が解けたところで、さらなる任務を課すH・M卿に軽く反抗するケンですが、その新たな任務でもまたもや誤解を受けることになり、(本当の意味での)本日二度目の結婚式どころではない状況に追いやられます。
H・M卿はもともと自身の考え(推理等)を開かさない主義なわけですから、読み終えて初めて事件全体がどういうものであったかを把握することができるという構成は、ストーリー物として不都合な印象を受けてしまいます。
パンチとジュディという実物の人形劇をタイトルとした意図や、本作を江戸川乱歩が紹介した際の道化的探偵小説という言葉を鑑みれば、ユーモアやファースという趣向としてとらえることはできなくはないのですが、推理小説ないし探偵小説の特徴ともいえる理路整然さから逸脱した部分からは、"カーはマニア受けする作家"という言葉の本来の意味が含まれても仕方がないでしょう。